『輪るピングドラム』第22話「美しい柩」考察

こんな時になんだが、『輪るピングドラム』第22話「美しい柩」の感想を述べる。もう涙で前が見えない……。

一つ、多分ハッキリしたこと。まんまとミスリードに乗せられてきたが、どうやらこの物語は二重の時間軸、恐らくパラレルな物語だ。物語がどこかでループしている。映画『メメント』に似ている。

眞悧が存在する時間軸と、存在しない時間軸。それは同時に、陽毬が生きている時間軸と、陽毬が死んでいる時間軸でもある。どちらの時間軸(世界線と言って良いだろう)が確定するか、の物語だ。従って、眞悧は実体を持たない。幽霊であるし、呪いだ。

兄弟として生き、妹の死を受け入れる時間軸。謎の薬と、冠葉の命の代償によって陽毬が生き続けている時間軸。眞悧とプリンセス・オブ・クリスタルの勝負は、その2点の選択にかかっている。

いずれの時間軸も陽毬の死によって時間制限を迎えて、もう一方の時間軸の冒頭へと繋がっている。ここで重要になるのが件の「運命日記」だ。

それぞれの時間軸に登場する「運命日記」。問題なのは、その内容では無く、その存在による。一方の時間軸の運命日記が失われた場合、恐らく他方の時間軸の運命日記も消滅する。つまり、晶馬と苹果が出会わなくなる。無限のループが途絶える訳だ。眞悧の狙いはきっとループを破壊すること。

逆に、桃果は運命日記の末尾に「こうして、私の大切なものは永遠になるだろう」と記している。桃果の望む永遠、それはループし続ける世界。「きっと何者にもなれない」とは、何かになったとしても時間軸のループによって元に戻ってしまうことを指しているのでは無いか。

プリンセス・オブ・クリスタルと桃果の関係がイマイチ整理できていないが、ループ継続派=桃果。ループ破壊派=眞悧。そしてループの存在そのものに気付く(≒輪るピングドラムを手に入れる)派=プリンセス・オブ・クリスタル?みたいな。

で、あと2話しかない今後の予想。今回の陽毬の死亡が、第1話のBパートに繋がりループしている。真砂子も死亡。瀕死の冠葉はループ破壊を試みるが、晶馬によって阻止される。冠葉死亡。晶馬もKIGAによって殺害される。まさかの主要登場人物が全員死亡、で第23話終了。

たった1人生き残った苹果が、運命日記の力で「運命の乗り換え」をすると、文字通り別時間軸の冒頭に戻る。何度も描かれた向かい合う矢印のピクトグラムは、このループを示している。だからオープニングでのピクトグラムは、2本の列車が追い掛け合う様子から矢印に置き換わる、という寸法。

運命の乗り換えが行われれば、誰も報われず、ただ苦しむだけの定まったループ(運命)を繰り返す訳だ。ここで、仮に運命日記が破棄され乗り換えが行われなければ、ループは崩壊する。全登場人物が死亡し、苹果がただ1人で生きることになるだろう。

恐らく、なんだが、2つの時間軸の見分け方がある。それは、実体としてのダブルHがいるかどうか。ダブルHのいない時間軸には、2人の代わりに「招かれざる黒ウサギ」シラセとソウヤがいる。

ダブルHとシラセ・ソウヤは言うなれば同位体。陽毬の編んだマフラーは、ダブルHに、同時にシラセ・ソウヤに渡されたことになる。

因みに、第1話のAパート(Bパートだったか?)に「シラセ・ソウヤになる筈だった少年2人」が登場している。ダブルHが登場する時間軸では、普通の小学生2人として宮沢賢治論(愛によって与えられる林檎の話)をしていた。

……という仮説を立ててみたけど、正直これまでの22話を通して確認する力が無いので、素直に第23話を楽しみに待ちたいと思います。

桃果が求める永遠は、自分を愛してくれる誰かが居続ける世界が続くこと。誰もが自分を大切な人だと信じ、忘れられず、囚われ続けるループ。

でもこの仮説だと、小説版、つまり文章だけでは到底描き切れない物語になってしまう。やっぱちょっとひねり過ぎかなぁ。

ありゃ~

ありゃ~

やべ。周囲のスタッフとの微妙な距離を感じる。気を使われてるような、様子を窺われてるような、品定めされるような。

まぁ、仕方ないな~。事務所でパニック発作起こして行方不明なって(僕はトイレ→非常階段へ移動しただけのつもりだったのだが、探しに人が出てくれていたらしい……悪いことしちゃったなぁ)帰って来たら会議室に倒れ込んで唸りながらうずくまってるっていう。そりゃあ大なり小なりショックは受けるよな。

で、倒れたのが一昨日、昨日は休み。今日は落ち着いたので笑顔で出社した訳だが……普通にはやっぱいかんよなぁ。

今日は余裕充分だぜ、と言いたいところが、切り上げて帰ろうとした途端に襲って来る全身の痺れと来たら……先日の程では無いにせよ、やっぱ調子悪いのは否めない。

明日は通院日。その後、事務所に行ってアカウント会議。万が一、僕が動けなくなった場合に備えて。

あー……ホンマ、あれかな。もう俺ここまでなんかな。やりたい気持ちでいっぱいやのに。

取り敢えず、今日は早く寝よう。

あのね、ずっと朝が来るのが嫌なんだ。

あのね、ずっと朝が来るのが嫌なんだ。朝が来なければ良い、何度も思う。夜は静かだし、余計なものが見えない。寝てもいい時間。起きてたら得したみたいな時間。

甘えなんだね。この甘えを乗り越える為に、誰かを目的にしようとするけど、それも甘え。自分の意志で朝に向かわなくてはいけない。

でも、出来ないよ……

したくない、したいと思えない、つべこべ言わずやれって思っても、全身が逃げる理由をずっと探してる。情けない、情けなくてたまらない。こんなこと言う暇があったら、一歩でも動けば良いのに。ずっと言い訳してる。

先生が、短期的なタスクを、取り敢えず起きる、取り敢えずシャワーを浴びる、取り敢えず着替える、取り敢えず家を出る、そうしてゆけ、と言う。出来る日もある。けど、出来ない日が多い。僕が意思薄弱なだけだ、無責任なだけだ、怠惰なんだ、そう評価して楽になりたい、

結局一回りして

Status

結局一回りして、ブログがいいや、っていう気分。

TwitterもFacebookもGoogle+も、それぞれいいんだけど、自分が自分で振り返りたいときに、少し不便だから。

ソーシャルサービスって、向いてるところと向いてないところが、やっぱり、あるんやね。

ソーシャル万能、って思っちゃうと、危険。

韓国の話

どういう訳だか、少し韓国の話をする。日本における、嫌韓の話。教育の話。善悪の話。というか、誠実という幻の話。

嫌韓な人たちの主張の論拠は、公的文書だったり、発言であったり、報道であったりする。そうした判断基準も僕は否定しない。当然、それに基づいて嫌うなら、それはそれで良いと思う。

でも。僕は考える。

同意した行動や、条約や、提言の定めに国は従うべきだ、っていうのは、何を論拠にしているのか?

思うけど、それが普通(ってか自分で同意した内容を何故実行しないのか)っていう前提自体が、限られた話。むしろ、そんなの間に受けてる方がバカなんじゃないの、って思う。

実際、倫理観なんてものは国に応じてまるで異なる。同じ国でさえ個人で異なっていて、時期や状況に応じても変わる。

約束や取り決めというのは、遵守される(され続ける)可能性と、いつか破られたり最初から守られない可能性が常にある。どちらもが常にある。「絶対守ってくれる」と感じても、それは「守られる可能性が高そうだ」という勝手な思い込みに過ぎない。

で、守るのが普通、とか、破ったら悪い、とか、そういうのは教育に基づいて刷り込まれた価値観だ。たまたま、これまで会った人の中でそうした傾向が強かっただけ。そうじゃない人が現れたからって、別にその人が悪い訳じゃない。その人は自分とは異なった価値観を持ってるだけの話。良いも悪いも、それは個人の感想だろ、って思う。

毎日の生活の中でだって、普通にそう。周囲の人の振る舞いだって、仕事上の会社の姿勢だって、この人立派だな、って思うこともあれば、この会社ひでぇな、って思うこともある。

何か説明すんの疲れてきた。

手短に言うわ。

1. 韓国で反日教育が施行され、反日である韓国人が多い(全員がそうだと仮定してみてもいい)としよう。で、それの何が問題な訳?

別に普通じゃないの。教育ってそういうものでしょ。僕らが受けて来た教育だって間違い無くそうしたことの為だよ。善悪、倫理、美意識、すべて国として都合がいいために定められたもの。だから、他の国からしたら「日本の教育って異常」って思われることだって、知らないだけできっとあるよ。

自分が嫌われることに不条理を覚える?当たり前だ。好きも嫌いも元々が不条理なもの。整合性や論理を求めることが意味無いじゃないか。

2. 反日が国の主導する政策だとして、それの何が問題なのか。

1. でも言ったけど、別にそこに論拠を求める必要なんか無い。国益最優先、で普通。日本の教育も、もちろん日本の国益最優先で行われている。集団を統率するための理念や倫理が、それを制定した人たちの意図に基づくのは当然の話。

戦後日本の教育指針を、GHQが左右しようが日本人の意思で決めていようが天皇がうんたらとか、どうでもいい。教育は何らかの利潤・利便のために意図して行われるもの。韓国でもどこかの誰かの狙いで指針が定められた。国という個人の集合体である組織における、統率手段である、という意味において同じだ。

教育の中で、公平な考え方や世界各国との協調を教えることが望ましいとか、特定の国の歴史の事実を捻じ曲げた内容や嘘偽りを教えるのはおかしいとか、そんな考えそのものがナンセンス。どっちも国にとってプラスになるものなら良い。国という構造において、それが正しい訳だから。それが国の行う教育なんだから。内容とか、どーでもいいんよ。それが教育という仕組みなんだもの。

3. 嘘偽りを信じている国の、何が悪いのか。

何が本当で何が嘘か、事実とか、国としてはどうでもいい。個人の感情でどうこう言おうが、それが国なんで仕方無いし、何よりその個人も間違いなく何らかの国の構成人員の1人だから。

なんつーか、個人の気持ちのレベルで国の話をすんなよ、って言った方が早いのかな。

4. 日本の韓国に対する接し方が甘い、という「甘い」の基準は何なのか。

甘いも辛いもない。国と国のお互い国益の主張し合いでしょ。他の国の時はこうだった、とか、そんな基準を論拠にすること自体が短絡的だ。だって、その国と日本は違う国なんだから。接し方も変えられて当然やん。

5. なぜ「隠されていた事実」とか「捻じ曲げられた真実」とかいう表現ができるのか。

隠蔽されていようがいまいが、どうでもいい。

国が自国に不都合な事実を隠蔽することのどこが悪い?事実を隠蔽するのは韓国だけか?と言うより、どこの国でも、国っていうのはそうするまとまりのことを指す。集団ってそういうもんだろ。お互い様だよ。

捻じ曲げられた真実、とか、さらに意味が分からない。捻じ曲げられない真実なんてある?無いよ。記述者の、報道者の、観察者の主観や思い込みのない記録も現場もあり得ないもの。

―――――

つまりね、国(と呼称しているが、一定の集団)というものは、他の集団を喰い、あるいは退け、集団としてのまとまりを維持する性質の様子だ、ということ。

その為に国が頭ヘイコラ下げようが、電波みたいな要求しようが、それが前提の様子なのだから良いも悪いも無いでしょうが。

そりゃ、好き嫌いはあるだろうけど。

そして、その好き嫌いは、あくまでも自分が何らかの国に属している前提に立つもので、普遍性のあるものではない、ということ。

―――――

まとめるわ。

まとまらんけど。

サル山でサルの群れ同士が争ってたとする。

一方のサルの群れが「向こうの群れは頭がおかしい。こういう理由でだ」と訴えたとしよう。

でも、どっちもサルだろ。

サルにはサル以上のこと、できないだろ。

サルがサルを笑っても、意味無いだろ。

同じサル同士なんだから。

人間には理性がある、とか思ってるとしたら、そりゃ思い上がりだ。人間だってただの動物だよ。そして他国民も生物学的に人間だ(人間じゃない、と教えているとか、我々はより優れた人種であると主張してるとか、それもどうでもいい。事実であろうが無かろうが、根拠があろうが無かろうが、肯定も否定も主観に過ぎないかあらだ)。どちらも獣で、やってることに大差無いんだよ。

何でそんな風に嫌えるんだよ。あるいは、好きになれるんだよ。

お互いに勝手な思い込みで自分基準の誠実さを求めてて、噛み合わなかったから(というより噛み合うことなんてないから)、互いの正当性を主張してるだけだろ。正当性なんて群れの中でしか通用しない話なんだから、お互いに主張し合ったってお互いに通用する訳無いだろ。

だから、お互いの利益の妥協点を見出して、その場その場をしのいでるんだろ。それが生きるってことだろ。それが補償金だったり島だったり謝罪だったり命だったり理屈だったりするだけだろ。

お互いに生きようとしてるだけなのに、なんで嫌えるんだよ。

俺にはそれが分からないよ。

欲望

ちょっとはしゃぎ過ぎたGWを反省する。

でも、否定はしない。後悔もしない。やり切った。

僕は自分の欲望を認める。自分がやりたいことは、やる。その結果も、受け容れる。

自分が思うことを、感じることをするのが、自然なんだなぁって思う。自分の欲求をコントロールしようとするのは、不自然なんじゃないかな。

たぶん、それが僕が生きたいという気持ちへと辿り着けた、鍵。会いたい人に会って、握手して、あぁこの人と会えた、この人生きてる、って感じたから得られた。僕はこれからも沢山の人と会って握手したい。

映画『マルタイの女』の中で、主人公の女優ビワ子が「アンタは生きてる。私も生きてる。嬉しい」って言うシーンがあるんやけど、昔はそのシーンが安っぽくて何か嫌いだったけど、今は実感で分かる。生きてるって、嬉しいね。あったかいって、嬉しい。

握手して、ハグして、頭ぐりぐり押し付けたり、そういうのが、生きてる感じがする。物理接触、何て言うんだっけ、あれ、スキンシップってヤツ。スキンシップってオッサンが言うと嫌らしい響きが少しするけど、でもそういうのが生きている自分を満たしてくれるんだ。

それが全てじゃないけど、血が流れてあったかいのが、幸せを実感させてくれるんだ。

何か最近似たようなことばっかり書いてるな。まぁ実感なんだから仕方ない。いいよね、それで。